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不登校だった自分が、少しずつ前に進めるようになるまで。

いつもXでポストを見てくださり、本当にありがとうございます。
はじめましての方もいると思うので、少し自己紹介を。

自分自身が中学生の時に不登校を経験したことの実体験や、今どう思うかを
日々Xでつぶやいている「ぎりリーマン」(@giri_girimen)です。

そして、この記事をあなたが読んでいるということは、
Xでの発信を、しばらく見てくれている方かも知れませんし、
はじめてここに辿り着いてくれた方かも知れません。

日々Xで発信を続けていると、少しずつフォロワーさんが増えていくこともありました。
正直に言えば、その数字自体にはあまり触れてきませんでした。


なぜならフォロワーさんが増えるたびに

「自分の発信で、いま不登校で苦しんでいる誰かの支えになれているのかな…?」
「すこしは皆さんの役にたっているのかな?」

という嬉しさを一方で、

「それだけ不登校で悩む人が多いという現実」も胸に刺さって、
複雑な気持ちになることも多かったからです。

でも今回は少しだけ柄ではないことをしてみようと思います。

日頃の感謝の気持ちを込めて、
自分が「不登校だった中学時代から、どうやって復帰していったのか」
その過程を時系列でお話ししようと思います。

(話が飛び飛びにならないように、時期を若干まとめてたりする箇所もあります)

これまでにXで発信してきた内容と重なる部分もあるかもしれませんが、
今回は 親にも打ち明けていないことまで書くつもりです。

時系列で振り返るので、少し長くなるかもしれません。
あなたのペースで、お時間あるときに読んでいただけたら嬉しいです。

目次

中1・2の頃は五月雨登校、中3で「完全不登校」を経験

自分が中学生だったころ、当時は今のように「不登校」という言葉が一般的ではなく、
どちらかというと 「登校拒否」 と呼ばれていました。

そのため、2025年(もうすぐ2026年)の今と比べると、
“学校に行けない子ども” への理解や情報もずいぶん少なかったように思います。
支援の言葉もほとんどなく、専門的な用語も今ほど整っていませんでした。

そんな中での、私自身の当時の状況を、いまの言葉で表すと

  • 中学1〜2年の頃は「五月雨登校」
  • 中学3年の頃は、ほぼ1年間「完全不登校」

このあたりが、最も近い表現になると思います。

そしてこの3年間は、
大人になった今振り返ってみても、
「人生で最も辛かった期間」 と言えるほど苦しい時間でした。

中1の頃、最初に感じた「違和感」


多分、今でも自分の母は「中3で完全不登校になってから」が
「我が子の不登校時代」という認識だと思います。

けれど、実際にはそれより前…中1・中2での五月雨登校の頃から、
私はすでに学校に行けず玄関でうずくまったり、腹痛でトイレに籠ったりしていました。

それでも当時は、

「学校が嫌だからサボろうとしてるんでしょ」
「怠け癖だよ、学校に行けば治るよ」

そんな「時代の空気」の中で、
親からも先生からも似たような言葉をかけられていた記憶があります。
(田舎だったというのも、大きかったと思います。)

ただ、自分が “強烈にクラスへの違和感を覚えた最初の日” は、
完全不登校になった中3ではなく、中学1年の春でした。

小学校の頃、仲の良かった友達の多くは中学受験で別の学校へ進学し、
新しい環境に不安もありながら、

「どんな人達がいるのかな」
「中学校ってどんな場所なんだろう」
「友達、できるといいな」

そんな期待も同じくらいありました。

入学式を終え、自分のクラスへ。

同じ小学校出身の子も数人いたけれど、殆どは地元で一番大きな小学校から来たメンバーでした。

最初の数日は説明で終わり、いよいよ“クラスの雰囲気が見え始める”歓迎遠足の日。

「知らないクラスメイトとも仲良くなれたらいいな」

そんな気持ちで、朝から少しだけ楽しみに登校したのを覚えています。

けれど今思えば…
あの日が “中学時代で最後の普通の朝” でした。

遠足は中学生らしく、ちょっとしたレクリエーションと自由時間。
特に大きなイベントもない、ごく普通の遠足です。

終盤、「今日、楽しかったな」と思っていた帰り道。
その時でした。

クラスの中でも人数の多い小学校出身の数人
(直接絡んできたのは一人だけでした)から突然、

「お前、〇〇小だよな?俺のほうがお前より上だから」

と、馬鹿にしたような、威圧した口調で言われました。

その瞬間は少しびっくりしたものの特に反応せず、
「ああ、いろんな人がいるんだな…」と流そうとしたのですが、

次の瞬間、大量の雑草を、私のカバンや服の中に押し込んできました。
それを見て笑う近くのクラスメート達。

小学校でも“軽いイジり”はありましたが、こんな風に関係性もない相手から、
突然こんな形で、からかわれたことは一度もありませんでした。

胸の奥が一気に冷えていくような、いまでも忘れられない感覚でした。

担任の先生が異変に気づいたのか、遠くから「おい、そこでふざけるなよ」と注意をしました。

けれどその直後、自分に向かって

「●●(ぎりリーマンの苗字)、お前も草で遊ぶなよ!後片付けをしておくように」

と、大きな声で叱ってきたのです。

「ああ……最悪だ。」

さっきまで「少し楽しいかもしれない」と感じていた一日が、ほんの数十秒で “最悪な一日” に変わりました。

家に帰り、

「突然でびっくりしたけど、何人かにからかわれ少し怖いと感じた自分」
「なにも言い返せなかった…」
「ただただ、一方的にやられた自分が情けない」

色んな感情が入り混じる中で、
雑草のエキスでところどころ赤くなってヒリヒリ痛い体を、少し泣きながらお風呂で洗ったのを今でも覚えています。

そしてこの日を境に、自分の心のどこかに
「学校が怖い」という感情が静かに芽生え始めた のです。

だましだまし学校に通う日々【五月雨登校期】

その後、「いじりが、はっきりとした“いじめ”に変わっていった」
というわけではありません。

あくまで、クラスの中では「誰かが気が向いたときに、都合よくいじっていい存在」。
いわゆる「いじられ役」のまま日々が過ぎていきました。

定期的に、からかわれることはあるけれど、
それはあくまで“いじりの範疇”。

言葉にすると難しいのですが、当時の自分にはどこかで、

「ここまでは許されるけど、
ここから先に出てきたら許されない」

そんな“見えない線”をクラスメートから突きつけられているような感覚がありました。


時間が経ち、クラスの雰囲気には少しずつ慣れてきたものの、
あの遠足の日以来、誰かと一緒に過ごしていても、心のどこかで常に不安が消えませんでした。

「いじめられているわけじゃない。でも、学校が怖い。」

そう感じることが、だんだんと増えていきました。


そしてこの頃から、今思えば
不登校の前触れのような症状 が、少しずつ現れ始めます。

朝になるとお腹が痛くなる

  • 理由の分からない吐き気や嘔吐
  • 夜、なかなか寝つけなくなる

当時はただ「体調が悪い」と思っていましたが、いま振り返ると、心と体が同時に限界を知らせていたのだと思います。


「週に1回…週に2回…週に3回…」

少しずつ、学校を休む日が増えていきました。

それと同時に、自分の中で 学校に対する拒否感のようなもの が、
確実に大きくなっていったのを覚えています。

中学2年になると、欠席の回数はいったん減りましたが、
根本的な状況が大きく変わったわけではありませんでした。

今思えば、学校そのものの空気感や人間関係が、
自分にはあまり合っていなかったのだと思います。


中学1年・2年の頃は、「学校に行っては休み、また行っては休む」
そんなことを繰り返していた時期でした。

「あっ、もう無理だ」完全に折れた中3の4月【完全不登校へ】

「行っては休む」を繰り返す自分。

多くの人から見れば、
それはきっと「甘え」や「サボり」に映ると思います。

けれど、不登校を経験した人や、身近でその状況を見てきた人なら、
少しだけ分かってもらえるかもしれません。

この状態は、
「それでも学校に行かなきゃ」と思っているからこそ起きるもの です。

本人なりに、必死なんです。

そんな自分が、「行っては休む」ことすら出来なくなった のが、
中学3年生になった春でした。

進級したばかりの4月。
クラスメートの一人と、ちょっとしたトラブルがありました。

といっても、中学生にはよくあるような、
仲間外れにされた末の、些細な言い合いです。

その出来事だけを切り取れば、
本当に「大したことのない」トラブルだったと思います。

でも、その瞬間。
自分の中では、
これまでの出来事が一気に頭の中を駆け巡りました。

・遠足の日のこと。
・教室での居心地の悪さ。
・だましだまし通っていた日々。
・増えていく欠席数。
・「自分はここにいていいのか」という感覚。

そして、ふと浮かんだ言葉が

・「ああ、もう無理だ」
・「自分という存在が、消えてしまえばいい」

その瞬間、
心の中の何かが、ぷつんと途切れた のを
今でもはっきり覚えています。


翌日から、自分は学校へ行けなくなりました。

それは、この先の人生の中でも、
一番つらい時間の始まり でもありました。

親との大喧嘩…

「行きたくない」

そう言葉にしても、中1・中2で五月雨登校を経験していた親からすれば、
反応は決まっていました。

「またか」

そんな空気。

1日…
2日…
3日…
4日…

学校に行けない日が続くたび、家の中ではその都度、大きな喧嘩になりました。

そして4日目を超えたあたりから、家の雰囲気は明らかに変わっていきました。

母は、発狂したように言いました。

「あんた、いい加減にしなさい!」

父からは、

「甘えるな!」

そう言われ、いわゆる「厳しい対応」(内容はここでは書きません)を受けました。

  • 布団から出てこない子どもに怒鳴る
  • 無理やり玄関まで引っ張られる
  • 車に乗せられ、学校付近まで連れていかれて大喧嘩

不登校の渦中にある多くの家庭が、最初にこの段階を通るのではないかと思います。

当時の自分の中には、こんな気持ちが同時にありました。

「親はわかってくれない」
でも、「親の言っていることは、間違っていない」

この矛盾が、何よりも苦しかった。

どれだけ親に厳しくされても、学校に行く辛さと比べると、

「家で怒られながら耐えたほうがいい」

そう思って、必死に抵抗していた日々でした。

きっと親も、

「どう厳しくしても、どうにもならない」
「どうして?」

そんな怒りや悲しみ、混乱で限界だったのだと思います。

消耗していく両親…

自分が完全に学校へ行けなくなってから、両親が最初に頼ったのは「学校」でした。

先生からのアドバイスを受け、いろいろなことを試そうとする両親。

一方で、自分はすでに「学校に行けない」と感じている状態。

ここには、どうしても大きな隔たりがあったと思います。

事態がまったく進まない時期、先生も交えて話し合いのような場が、何度か持たれました。

担任の先生が家まで来たり、親だけ学校に行ったり、自分も連れていかれる事もあったり…。

ある日、話し合いの途中で自分だけ先に車へ戻され、
親と先生だけが少し話をする時間がありました。

そのとき、先生が親に伝えたのは、

「不登校になるご家庭は、
 まずご両親の仲が悪いことが多いんですよ」

「親御さん側に問題がある可能性もありますね」

そんなニュアンスの言葉だったそうです。

帰りの車の中で、母は号泣しながら言いました。

「〇〇、ごめんね」

父も、沈んだ声で、

「お父さんの態度に問題があったかもしれない」

と話していました。

自分の中では、
「学校に行けなくなったきっかけ」は分かっていました。

でも、それを両親にも、先生にも、はっきりと言葉にできずにいました。

特別に何かをしてくれたわけじゃないけれど、これまで大事に育ててくれた両親に対する申し訳なさ。

そして同時に、「なぜ、そんなことを言うのだろう」という先生たちへの不信感。

この日を境に、両親が「学校に行け」と言うことは減っていきました。

その代わりに、少しずつ、母の様子がおかしくなっていったのです。

”母の知り合いの知り合い”の人

学校とのやり取りのあとからしばらくして、

「今日は、知り合いの人と話してくるから遅くなるね」

母からそんな言葉を聞くことが増えていきました。

そしてある日、母は言いました。

「〇〇の話を聞いてくれる人がいるから、一緒に行こう」

そう言われ、車に乗せられました。

2時間、3時間と走っても、なかなか目的地に着かない。

その間、頭の中は不安でいっぱいでした。

「病院に連れて行かれるのかな」
「学校に行けないから、どこかに置いていかれるのかな」

たどり着いたのは、
森の中にある、少し広い古民家のような場所でした。

今の言葉で言えば、
いわゆる「スピリチュアル系」なのでしょうか。

占い師のような、
過去や未来のことを語り、
さまざまなアドバイスをくれる女性がそこにいました。

誤解のないように書いておきますが、
この人が「悪い人だった」ということはありません。

高額なお金を請求された記憶もなく、
とても感じの良い女性でした。

その女性が、

「この子は大丈夫。学校にも行けるようになる」
「将来は、こんな可能性がある」

そう言うと、
母はほっとした表情で、

「よかったね、よかったね」

と、何度も言っていました。

自分にとっては、
とても異質な光景でした。

ただ、それ以上にショックだったのは、
自分の不登校が原因で、
母がここまで追い詰められていたこと
でした。

「どうしよう」
「どうしよう」

そう焦っていたのを覚えています。

不登校になる前の母も、
今の母も、
いわゆる「普通の母親」です。

占いが好きだったわけでもなく、
スピリチュアルに関心があるタイプでもありません。

当時はインターネットも今ほど普及しておらず、
SNSもありませんでした。

誰にも相談できず、
母もまた、不登校によって孤立していたのだと思います。

「自分のせいで、家族が傷ついている」

そう思いながら、
それでも何も出来ない自分が、
たまらなく嫌でした。

ただ溶けていく日々、少しの兆し

「このままじゃ、家族が壊れてしまう」
でも、学校には戻れない。

そんな感覚の中で、別室登校にも何度か挑戦しました。

けれど結果的には、学校という空間に“自分が存在していること”自体が
どんどん辛くなっていき、結局は挫折してしまいました。

親も戸惑いながらだったと思いますが、この頃からは、少し距離を取りながら
そっと「見守る」ようになっていった気がします。

それは、正解が分からない中での、親なりの精一杯だったのだと思います。


そこからの日々は、本当に何もない毎日でした。

ただ時間だけが、だらだらと、音もなく溶けていくような感覚。

「何かをしよう」と思えるほどの力は、
まだありませんでした。

でも、ある時ふと、こんなことを考えるようになります。

何かを“頑張る”ことは出来なくても、
 何かを“楽しむ”ことなら出来るかもしれない

日中、両親が仕事で家を空けている時間。
一人で、音楽を聴くようになりました。

当時、周りではあまり聴かれていないような曲や、少し前の世代の音楽。

そのメロディーや歌詞に、気づけば、何度も救われていました。

中学生になってから、
心が少しだけホッとした」と感じた時間は、
これが初めてだったかもしれません。

それまでは、何をしていても常に緊張していて、
「存在したくない」「消えてしまいたい」
そんな思いで頭がいっぱいでした。


音楽を聴き始めたことで、ここで初めて、
自分の内側と向き合い始めた気がします。

そして、こんな考えが浮かぶようになりました。

どうせ消えたいと思いながら過ごすなら、
 何か自分の好きなことをしてみたほうがいいんじゃないか

今思えば、この年齢の中学生にありがちな妄想だったのかもしれません。

でも、「バンドを組んでみたいな」
そんなことを、ぼんやり考えるようになったのです。


どうせ消えるんだから、 下手くそで周りに笑われてもいい

高校生になったら、 一度くらいバンドをやってから消えたい

今思うと、とても歪んだ動機だったと思います。

それでもこの時、人生で初めて、はっきりと「未来に照準を合わせた」のは確かでした。

変わり始めた”夏休み”

1学期の終わり頃には、両親との激しい「押し問答」は減っていました。

そして夏休みに入ると、学校の話題そのものが一旦なくなり、
両親と比較的、冷静に話ができる時期になっていきました。

この頃、両親に伝えたのは、こんなことでした。

  • 今の中学校に通い続けるのは難しいこと
  • 高校には進学したいと思っていること
  • そこで心機一転、頑張ってみたいこと
  • 音楽をやってみたいという気持ち
  • 信じてもらえないかもしれないけれど、
    自分の人生は自分で決めたいこと
    だから、あの人(相談を受けてくれていた人)に
    これ以上相談するのはやめてほしいこと

両親は、

「うーん……〇〇は、そう考えているんだね」

そう言ったきり、しばらく考え込んでいました。

はっきりとした返答はありませんでした。
そのあと、父と母で話し合ったのかもしれません。

ただ、自分自身は
特別なことのない、静かな夏を過ごしていました。

完全不登校だった1年の中でも、
この夏休みは、比較的
少し元気が戻っていた時期だったと思います。

同級生たちは、部活動が終盤(もう終わってたのかな?)で、本格的に受験勉強を頑張っていたり。

自分はそこから大きく道を外れていて、焦りや劣等感、さまざまなネガティブな感情を抱えながらも、
それでも少しずつ、気持ちは回復していました。

思い返せばこの頃、親との何気ない雑談も増えていきました。

「〇〇をやってみたい」
「高校生になったら、こんなことをしてみたい」

そんな自分の考えを、
少しずつ言葉にするようになっていた気がします。

人より何も進んでいない夏休みでした。
でも自分にとっては、この1か月半ほどの時間が、
両親との関係性、そして自分自身と向き合ううえで、
とても大切な期間だったと思っています。

「もう学校に行きなさい」とは言わないから

夏休みが終わる前日だったか、2学期の始業日だったか、
正確な日は覚えていません。

母が、父も隣にいる中で、こう言いました。

「もうね、お母さん、 学校に行きなさいって言わない」

「〇〇なら大丈夫って、信じることにした」

正直、「2学期は学校に行くように」と言われる覚悟をしていた自分は、
思わず聞き返しました。

「本当に? なんで?」

すると母は、

「夏休みの様子を見ていて、そう思った」
「でも、家で頑張れることは頑張りなさい」
「お父さんも、同じ気持ち」

そう、静かに話してくれました。

「わかった。ごめん。ありがとう」

そう答えて、「やれるだけ、やってみよう」
と心の中で覚悟を決めました。

この時から、家族の中では
「学校に戻る」ではなく、「高校から頑張る」 という方向に少しずつシフトしていったのだと思います。

進路の現実…”少し年上の人達”のアドバイス

進路について調べ始めると、
やはり「出席日数が少ない」という事実は、大きな壁でした。

  • 中学校で頑張ったと胸を張れることはない
  • 勉強も遅れていて、ほとんど出来ていない

「自分が思い描いている条件の高校に、 進学するのは難しいかもしれない」

そんな不安を抱えながら、
当時よく入り浸っていたインターネットの「チャット」で仲良くなった、
少し年上の高校生たちに相談するようになりました。

彼らは、いじめを経験していたり、学校に行けなかった時期があったり、
どことなく自分と似た背景を持つ人たちでした。

知らなかった音楽を教えてくれたり、
面白い漫画を紹介してくれたり。

それだけでなく、良いことは「良い」と言い、良くないことは「良くない」と
等身大でちゃんと伝えてくれる存在でした。

友達のいなかった自分にとって、
心から信頼できる、年の近い大人のような存在だったと思います。

「出席日数が足りなくて、 高校に行けないかもしれない」

そう相談すると、その中の一人が
定時制高校や通信制高校の存在を教えてくれました。

すぐに自分で調べて、

「ここなら、自分でも頑張れるかもしれない」

そう、ほんの少し希望を感じたのを覚えています。

※携帯が水没して連絡が取れなくなってしまいましたが、
 今こうして生きているのは、 間違いなくこの人たちのおかげです。
 当時は、本当にありがとうございました。

若干の衝突、それでも自分で選ぶ

中学校や不登校については、両親はもう何も言わなくなっていました。

ただ、高校の進路については、多少の衝突がありました。

父と母としては、「出来るなら全日制に行ってほしい」
という思いがあったようです。

一方で自分は、全日制高校を
「中学校の延長線上にある場所」
のように感じていました。

正直、そこに自分が適応できるとは思えませんでした。

話し合いを長期間、何度も重ねた末、自分はこう伝えました。

「自分が通う高校だから、 自分で決めたい」

すると最終的に両親は、その意見を受け入れてくれました。

定時制高校に通った今があるので、全日制に進んでいた未来がどうなっていたかは、
正直、想像がつきません。

でもこの時、「自分で決めた」 という事実だけは、
今でも良かったと思っています。

重要な場面で自分で選んだ結果なら、うまくいっても、いかなくても、
後悔はしにくい。

この経験は、自分にとって、とても大切な出来事の一つでした。

定時制高校に合格

最後まで、通信制高校と定時制高校で迷いましたが、
最終的に定時制高校へ進学することを決めました。

勉強は、出来るときにやる。
……と言っても、集中できていたか、理解できていたかは正直あやしいです。
実際、ほとんど勉強らしい勉強は出来ていなかったと思います。

五月雨登校、不登校となり…勉強についてはかなりの箇所で学習漏れがあったからです。

音楽を聴きながら、ギターを練習して
(Fコードで挫折して)、
とりあえず机に向かって、少しだけ勉強する。

そんなことを繰り返しながら、受験の日を迎えました。

きっと親は、
「この子は本当に大丈夫なのか」と
不安だったと思います。

結果は、自分の感覚では“かなりぎりぎり”でしたが、
なんとか合格。

無事に、定時制高校へ入学することができました。

母が喜んでくれたのは、もちろんですが、
普段あまり多くを語らない父が、

「よかったな。高校生活、頑張れよ」

と声をかけてくれたことを、今でも覚えています。

きっと父なりに、ずっと心配してくれていたのだと思います。

定時制高校へ入学

定時制高校への入学は、少しの希望も感じていたものの、とても不安でした。

  • クラスに馴染めるだろうか
  • また、居場所がなかったらどうしよう

どうしても中学時代の記憶がフラッシュバックして、
最初は怖さのほうが大きかったです。

実際、少し怖そうに見える同級生もいました。
でも、多くの人がそれぞれ事情を抱えていました。

  • 年齢がバラバラ
  • 家庭環境が複雑
  • 自分と同じように、学校に通えなかった経験がある

その「違い」がある環境は、自分にとっては不思議と、
とても居心地のいい距離感でした。

先輩や同級生とバンドを組むこともでき、自分が「やってみたかったこと」
に挑戦できる環境だったと思います。

あまりSNSでは触れていませんが、定時制高校時代が
すべて順風満帆だったわけではありません。

楽しいこともあれば、同級生とのトラブルや、
つらい出来事もありました。

それでも、中学生の頃のように
「学校が怖い」「クラスが怖い」と感じることはありませんでした。

それが成長だったのか、
環境のおかげだったのかは分かりません。

ただ、無事に卒業まで辿り着けたことは、
自分にとって大きな経験でした。

「ありがとう」としか言えなかった

さまざまな出来事を経て、定時制高校を卒業する日が来ました。

卒業式が終わり、教室で保護者に感謝を伝える時間がありました。

クラスメートが順番に言葉を述べていく中、あっという間に自分の番が来ました。

数日かけて書いた手紙。
中学時代からの謝罪と感謝。
当時の思いを、たくさん綴っていました。

「さあ、読もう。」

そう思った瞬間、母と目が合いました。

  • 中学校に行けなかったこと
  • 家族全体が追い詰められた不登校の期間
  • 「あんたなら大丈夫」と信じてくれた母
  • 定時制の間も、変わらず支えてくれた両親

一気にいろいろな感情が込み上げてきて、
気づけば泣いてしまい、
手紙を読むことが出来なくなっていました。

「ありがとう」

そう言うのが精一杯でした。

母も泣いていました。

クラスメートからは、
「なに〇〇、泣いてんだよ〜」
と笑われましたが、
それは、とてもあたたかい笑いでした。

定時制高校時代は、自分にとって
もう一度、人と関わる練習をするための、大切な時間だったと思います。

今は、小さい幸せを感じながら生きています

その後、専門学校に進学しましたが、新卒での就職活動はうまくいかず、
フリーターを経て、なんとか就職し、自立できるようになりました。

(その後も転職はしていますが)

今は、妻と子どもたちと、派手ではないけれど、
穏やかな生活を送っています。

正直に言えば、これまで生きてきた中で
「人生は素晴らしい」と思える出来事より、
つらかった出来事のほうが多かったです。

特に中学時代、不登校だったあの頃は、
人生の中でも一番、どうしていいか分からない、八方塞がりの時期でした。

この文章を読んでくれている方の中にも、
「どう進めばいいのか、道が全く見えない」
そんな状況の人が多いのかもしれません。

不登校の時、自分の未来が想像できなかったのが、
とにかく怖かった。

・そもそも、仕事はできるのか?
・対人関係は大丈夫なのか?
・このまま、何もできないんじゃないのか?

ネガティブな想像しか、頭に浮かんでこなかった。

だから、当時の自分のように、
「消えてしまいたい」と思っている人もいると思います。

自分の経験から言うと、
安易に「そんなこと言わないほうがいい」
とは言えません。

本当に、つらかったから。

ただ、ひとつだけ伝えられるとしたら、
こんな言葉です。

人生が真っ暗な道に見えていても、
少しだけ別の道を選んだら、
想像もしなかった景色が広がっていることがある。

中学時代の自分は、
ちゃんと働けている未来も、妻と出会い、
子どもたちと暮らす未来も、まったく想像できていませんでした。

今がつらいからといって、
この先の未来がずっとつらいとは限らない。

(逆に、今の幸せが壊れる日が来るかもしれない、とも思っています)

それでも、もし今、学校に行けなくて将来が見えなくても、
自分のペースで、少しずつ進めばいい

取り巻く環境や状況は、少しずつ、確実に変わっていく。

「不登校になったとしても、人生は終わらない」

自分は、そう信じています。

最後に

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
(そもそも、ここまで読んでくれた人がいるのか分かりませんが…)

普段、Xで発信しているときも、
当時の気持ちを思い出しながら言葉を選んでいますが、
こうして一つの文章としてまとめて書くのは、正直かなり大変でした。

自分の中では、不登校はもう 「過去の出来事」 「終わった出来事」 だと思っていたはずなのに、
この文章を書く過程で、記憶の蓋を無理やり開けるような感覚になり、
いい年したおっさんが、気分が悪くなりながらキーボードを打っていました。
(文章自体は、11月下旬から書き始めました)

それでも、ここまで書いたのは、 この文章が誰かの人生を変えなくても、
少しだけ今、不登校で悩んでいる誰かの心を軽くすることが出来たらと思ったからです。

ただ、今しんどい人が 「自分だけじゃなかったんだな」と思えたり、
少しだけ呼吸がしやすくなったり、
そんな小さなきっかけの一つになればいいな、と思っています。

最後に、少しだけ補足をさせてください。
このブログでは、今後、 不登校や学校との向き合い方について、
自分なりの経験や考えを書いていく予定です。

その中で、 自分が実際に調べたり、
「こういう選択肢もある」と感じたものについて、
触れることがあるかもしれません。

ただ、ここは 何かを無理に勧める場所ではありません。
誰かの人生を簡単に変えられるとも思っていません。

自分自身、 過去にとても苦しかった経験があるからこそ、
不安を煽るようなことや、 無理な提案はしたくないと思っています。

このブログが、 「こうしなきゃいけない場所」ではなく、
「選択肢を知る場所」であればいいな、 そんな気持ちで続けていくつもりです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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この記事を書いた人

中学時代に不登校→現在は2児の父親|妻も不登校経験あり|「今は不登校でも大丈夫、なんとかなるよ」と伝えられたらと思いブログを始めました。自身の経験から過去の自分と悩んでいる子、その家族の方に当時の心境や情報を発信しています。

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