不登校だった当時、
1日の殆どを家の中で過ごしていました。
「何かしなきゃ」「せめて勉強だけでも」と思っているのに体も心もついて来ない日が多かったような気がします。
親をはじめとした周りの人達から見れば「何もしていない時間」だったかもしれません。
でも、当時の自分にとっては1日1日、必死に踏ん張って生き抜いた日々だったと思います。
今回は、あの頃の
「1日の過ごし方」と「その時の心境」を振り返ってみようと思います。
同じように今、立ち止まっている誰かの、少しの安心につながれば嬉しいです。
当時の1日の流れ
不登校といっても、
五月雨登校の時期と、完全に学校へ行けなくなった時期では
1日の過ごし方も、心の状態もまったく違っていました。
ここでは、当時の自分がどんな日々を過ごしていたのか。
記憶に残っている “1日の流れ” を振り返ってみようと思います。
五月雨登校期・完全不登校初期
【朝】
- 自発的に起きられない日が多い
- 親に起こされる・登校を促される時間帯
- 生活リズムは「不眠〜過眠」を繰り返す状態
【昼】
- 昼前後に起床
- 食事
- 家でテレビやゲームをして過ごす時間が中心
- 外出は少ない
【夕方】
- 親と会話する時間帯
- 翌日の登校について話題に上がることが多い
【夜】
- 入眠困難が続く
- 深夜〜明け方に就寝する生活リズム
- 翌朝は再び起きられない状況が繰り返される
完全不登校・中期〜末期
【朝】
- 起床は遅めだが、家庭内の役割や挨拶など
「できる範囲で行動する」機会が増える - 時期によって、朝だけ家族と顔を合わせる取り組みを行う
【昼】
- 家の中で過ごす時間が中心
- ギター・音楽などの趣味に触れる時間が増える
- 外部との接点は限定的
【夕方】
- 家族と食事
- 状況に応じて、受験や進学に関する学習に少し取り組む日もある
- 調子の波により行動量は日によって変動
【夜】
- 依然として入眠は不安定
- 夜更かし〜明け方就寝の生活リズムが続く
- 日中と夜間で活動量に差が出やすい
当時の生活の中で感じていたこと
不登校の時期は、同じ1日の繰り返しのはずなのに、
心の中では常に緊張と不安が渦巻いていました。
朝は「起きなきゃ」と思う気持ちと、「体も心も動かない現実」の間で揺れ続け、
親とぶつかり合う時間が怖くて、苦しくて、それでもどうにもできない自分がいました。
昼になっても罪悪感は消えず、
何かをしようとしても手が止まり、
ただ時間だけが溶けていく感覚が続いていました。
テレビの中の笑顔や何気ない日常の風景に触れたときだけ、
ほんの少しだけ「世界とのつながり」を感じて、
その瞬間に救われていた気がします。
完全不登校が進むにつれて、
少しずつ「できること」が増える一方で、
将来への不安や「このままでいいのか」という焦りは常に心の底にありました。
夜になると、それらの不安がいっそう強くなり、
眠れないまま考え続けてしまう。
静かな時間ほど、自分自身と向き合わされる感覚があり、
その怖さを今でもはっきり覚えています。
それでも、
家族との挨拶や小さな会話、
音楽に触れる時間の中で、
ほんのわずかに「希望の芽」のようなものが生まれ始めていた——
あの頃の心境を一言でまとめるなら、
不安と恐怖の中に、静かに芽生え続けていた “わずかな希望”
そんな毎日だったと思います。
いま振り返って思うこと
当時はただ必死で、
自分の心と向き合う余裕なんてありませんでした。
けれど振り返ってみると、
何もできなかった日も
逃げ続けていた日も
ちゃんと“自分の一部”として残っている
そう感じます。
そしてあの頃の自分は、
止まっていたんじゃなくて
ただ生き延びていただけ
今は、そう思えるようになりました。
今、同じ状況の人へ
ここまで色々と書いてきましたが、
今まさに動けずにいる子も、きっと毎日、
「このままでいいのか」「将来どうなるんだろう」
という不安や恐怖の中で過ごしているのではないかと思います。
周りからはよく、
「じゃあ学校に行けばいい“だけ”じゃん」
と、軽く言われてしまうことがあります。
でも、その「だけ」がどうしても出来ない。
そこにあるしんどさは、実際に経験した人にしか分からない部分が、たくさんあると思います。
今、大人になった自分から振り返ると、
あの頃の自分は「何もしていなかった」わけではなくて、
- 将来への恐怖
- 自分はダメなんじゃないかという気持ち
- この先どう生きていくのかという不安
そういったものと、ずっと頭の中で向き合い続けていました。
一見、部屋でじっとしているだけに見えても、
心の中ではフルマラソンみたいに走り続けていた感覚があります。
あの、動けないまま考え続けていた時間がまったく無駄だったかと言われると、
今は、そうじゃなかったと感じています。
あの時間があったからこそ、
「自分はどう生きたいのか」
「何を大切にしたいのか」
を、ゆっくりでも考えざるを得なかった。
もちろん、出来るならそこまで追い込まれない方がいいし、
あの頃に戻れるなら、もっと楽な選び方もあったのかもしれません。
それでも、
あのとき動けない自分を抱えながら過ごした日々も、
結果的には今の自分へと繋がっている「一部」なんだ、と今は思えています。
もし今これを読んでいるあなたが、
同じように動けない毎日の中にいるとしたら──
「何もしていない自分」だと決めつけすぎなくて大丈夫です。
外からは止まっているように見えても、
心の中では、ちゃんといろんなことに耐えながら、
それでも生きようとしている最中だと思います。


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